就活生から「就職先が決まりました!」と連絡があった。年末ギリギリだが、来年の社会での一歩が決まったことは喜ばしい。
この就活生は春から、ずーーーーーっとキャリアセンターにやってきていて、おそらく利用回数と利用期間ではダントツではなかろうか。ここまで苦労したことには様々な理由があるが、社会で求められるのは、大学偏差値や勉強だけではない、ということを改めて思い知らされた。
大学院時代の研究テーマでもあったが、この大学と企業とのミスマッチは日本固有の課題だろう。日本の新卒採用が問題だ、という言説が増えているが、それは元々、大学と社会が連携して「半完成品」としての人材を、社会の体験によって育てていくシステムで、世界では類を見ない長期の社会人育成だ。
ところが、企業側にその余裕がなくなり、大学側はその変化に対して鈍感で、結果的に日本社会の若者を育てる環境がどんどん悪化して、社会が若者育成力を失ってきている。
企業を父親、大学を母親と考えたら(こうしたメタファーも最近は使いにくくなった)、お互いに責任があるのに、結果をとらされるのは子供、という構図になる。こんな社会で夫婦が子供を作り、育む気になるだろうか、養子(中途採用)に走りやすくなるだろう。いや、それ以前に結婚する気になるのか。そして少子化がますます加速する。社会学で良く言われる言葉が浮かぶ。
「子供のできる唯一の抵抗は、生まれてこないことである」。
そんな中で、キャリアセンター職員の役割は、ERまたは産婆さんだと考えている。快適なところから、世の中の試練の中に生まれ落ちる支援だ。学生は社会人としては胎児のようなもので、やりたいことなど最初からわかっている者はいない。
「やりたいことは貴方の中にある」魅力的かつ危険な言葉だ。
だからこそ、大学では授業を中心に、それを活かすためのキッカケ作りや、課外活動、国外留学活動を支援する。しかし、これも気をつけないと、環境を全部用意しすぎて、自立できない「生徒」を育ててしまう。
年末最後の在宅業務日にあたり、今年の振り返りと来年の戦略(キャリア教育と支援の融合)をつらつら考えている。これまで見えなかった問題が見えてきたのは、コロナ禍と同じで、やっとデータがとれ、わからないものとわかるものがわかってきた。それは、やるべきことと、やらざるべきことの見極めだ。
既存の仕組みを止めるのは意外と難しい。
それは経営者やリーダーでなければできないことだ。
現場の意見を聞くのは良いが、自発的に判断させることではない。
今回の就活内定連絡を貰って、やっと肩の荷が下りたと感じると同時に、コロナ禍から退院した方を見送る医療関係者のことが浮かんだ。こんなストレスをずっと春から続けてるのは想像を絶することだ。が、社会に戻せたやり甲斐(責任感か)があるから続けられるのだろう(しかし、それも限界だと思う)。
医療機関も交通機関も教育機関も、およそ社会インフラで働く人の根底にあるのは自分のためではなく、誰かのために身を尽くすことだ。
プロフェッショナルとは
私の今のこたえは、
「自らの専門性を高め、他者のために使う者」
である。
それを就活生にも伝えている。
「大学生なら、やりたいことより、やりがいことを探せ」
自分のためではなく他者のために動くことで、やり甲斐は生まれ、それはいつかやりたいことになっているだろう。自分の好きなことを相手に押しつけるのは自己満足だ。「笑顔」や「勇気」は与えるものではない。相手に働きかけた結果だ。大学というのは、そうした他者・社会の期待に応える存在であるために、切磋琢磨する場所なのだから。
なので、その期待をもって入学できなかった1年生には非常に申し訳ないと感じる1年だった。来年は「失われた1年」のリカバー策も実行したい。
しかし、職員の仕事は時間管理が中心だが、教員の仕事は内容管理が中心だ。兼任させられているということは、大学経営者としては最高の使い勝手だ。時間管理されて裁量労働は許されず、成果を求められる。ますます医療関係者の気持ちがわかる。()
こんなことを思いついて書いているから、全然、仕事が終わらない。(~_~;)