前回は企業の囲い込みによる大学授業欠席の問題を書きましたが、やはり現実のものとなってしまいました。就活で企業のインターンシップ・内定者研修で出席不足になり、補講や補習を行っても、単位を出せない学生が数名、出始めたのです。学生の言い分で聞いているので、本当に企業に呼び出されているかは不明ですが、それを斟酌しても企業が平日の授業時間に大学生を呼び出す頻度や回数は年々増えており、この現象はますます増えると思われます。
そんな私のPBL型授業の一コマで、ゲストで招いた採用選考に関わるある企業役員がこんなことを言っていました。
「今の学生のエントリーシートや面接スキルは凄いですね。対策がしっかりできている人が多くて驚きます。これは相当に考えて努力してきたんだなと思わされます。ただ、大学生活に余裕があるのかな?と心配にもなります。もうちょっと旅でもしてきたらと思います。」
この方は人事系の役員ではなく、決して皮肉で言っているわけではありません。役員面接に上がってくる学生ですから高評価なのは当然だとしても、現在の大学キャリアセンターや就職支援サービスの発展の成果でしょう。これは現代の小中学校の教員より、学習塾や個別指導家庭教師のスキルが上なのと同じです。ある小学生からはこんなことを聴いた事があります。
「授業でわからなかったら、学校の先生より塾の先生に聞きます。」
翻って大学授業を見直すと、小レポートやリアクションペーパーの書き方は、就活をしてきた高学年の学生の方が良く書けます(低学年でもしっかり書ける子は、一般受験で入って来た子達です。彼らはここに来るはずではなかったと良く言います)。
大学授業ではアクティブラーニングが増え、リアクションペーパーを書かせるFD(教員の教育スキル向上のためのフィードバック)は盛んです。しかし、肝心のリアクションペーパーやレポートの書き方の教え方は不十分です(というかそこまでは人手不足で回らないのでしょう)。
教員は「教えているが学生が覚えていない」とよく言いますが、それは「わかる」と「できる」を混同しています。具体的に言えば、インプット教育はしていてもアウトプット教育は十分ではないということで、そこは学生の自主性が前提である旧来の大学生エリート時代の思考です。
そして、それを就職活動で学生が自主的にやって補完しているのだとしたら、アウトプット教育は企業(就職産業)が担っていることになりますが、それはあるべき大学教育・社会の姿でしょうか?
大学教員は「論文を書くことは社会で役に立つ」とも良く言います。拙論を書いた身としてそれは否定しませんが、卒論のような膨大な論文を書く機会・ニーズは企業でどれだけあるでしょう?長大な課題に取り組んだ達成感や自己効力感は間違いなくありますが、実践的なスキルとしては割鶏牛刀と言えなくもありません。社会課題の解決を提唱する大学教員は多いです。しかし、大学教育のあり方が社会課題になってきていることに気付いている教員はどれだけいるのでしょうか?