第387号:学生囲い込みのシーズン

「企業のインターンシップが入りましたので、来週の授業を欠席します。」というメールが3年生から増えてきました。この時期、早期に学生を囲い込みたい企業の呼び出しが年々増加しています。複数の大学で教えていると、企業が一所懸命に囲い込む大学とそうでない大学がよくわかります。採用担当経験者として企業側の気持ちもわかりますが、「採用ルール」を新たに作るなら、同時に「採用倫理憲章」も設定して欲しいと思います。それは大学のためだけではなく、企業や社会のためでもあり、大学の課題でもあります。

私の授業では、どんな理由であろうと欠席を認めるのは2回までです。補講や補習の事前相談には乗るし個別対応も検討しますが、事後報告は基本的に認めません。中には「就活なので公休扱いをお願いします。」という学生もいますが、私が許容するのは、教職課程大学代表での試合等、大学の正規行事についてのみだけです。

企業の採用活動の「倫理憲章」がいつの間にか「採用ルール」という言葉にすり替わっていますね。日本を代表する企業群が、大学&大学生の学習環境や人権を守るために作ったはずの「倫理」がいつのまに、企業と学生の採用活動&就活の「利益・利便」の議論になっています。

以前から言い続けていることですが、企業として採用活動の新たな工夫や挑戦は自由な営利活動として当然ですが、その「利益」が「倫理」を蹂躙するのは納得できません。実際、私は採用担当者時代、経団連にも入っていない企業なのに律儀に倫理憲章時期を守っていました。周りからはプレッシャーをかけられていましたが、採用担当者の矜持というか自己満足ですね。しかし、その考えをある国立大学の就職担当教授に話したら、喜んでくれて学生を紹介してくれました。

一方で、大学側が社会・企業から軽視・無視されるような授業をいつまでもやっているのも明らかに問題です。やっているように見せている上手な広報や、形ばかりのキャリア教育など何の意味もありません。国の補助金採択をブランド化して自慢などせず、その予算はちゃんと「良い」授業のために投資に回すべきでしょう。本当に大学のブランド価値を上げるのは、卒業した学生の成果であるべきです。そのためには大学成績等も単なるGPA数値などではなく、個別能力の成果を示すべきです。それがなければ、学生自身も自分の長所・短所に気付けないし、企業も成績(大学の学業)を評価できません。

当面の私の授業の問題は、学生が抜けることによって計画しているPBL型グループワークに支障が出ることです。欠席した学生を切り捨てるのは簡単ですが、半端に出てこられる学生の対処は一番手間がかかります(何とか救済してやりたいので)。

ところで、企業インターンシップ担当者も教員と同じ気持ちになることがあります。時間と予算をかけて立案、募集、選抜して集めた学生が「その日は授業があるのでインターンシップを休みます。」とメールが来たりするんですよね。採用担当者も脱力感で一杯になります。

第386号:採用担当者が求める社会人能力としてのタテマエ

就職活動や採用活動において頻出する言葉に「タテマエ」と「ホンネ」がありますね。企業も学生も「タテマエ」ではなく「ホンネ」を知りたいと言いますが、「タテマエ」も見方によっては採用担当者が求める社会人としての「能力」になります。

先日の授業で、グループ討議の題材に「大学生の就職活動における一番の問題は?」と設定したところ、受講者の一人から以下のような意見が出されました。

自己分析就活もメソッドに囚われすぎで、もっと根本のホンネの問題だと思う。そのためには、まず企業が変わらなければならない。「企業も学生も仮面を被るな!」と言いたい。でも、現実的には学生が上手く対応するしかないかな?』

ホンネ」が好きで「自分らしさ」を貫きたい「青年の主張」としては理解出来ますが、社会で生きていくためには、状況に応じて自分の言動を切り替える「能力」が求められます。私自身、商社で営業をしてきたのでビジネス上の不合理には無数にぶつかって苦労してきました。例えば、お客さんから「俺は巨人ファンからしか買わない!」と言われたら「奇遇ですね!私も巨人が好きです!」と回答するとか。ホンネでは当時の中日ファンでアンチ巨人だったので、心の中では「巨人が好きなのは嘘ではない、でも中日と比べたら比較にならない」と呟きながら。

社会人の能力としてこのような「タテマエ」が求められるというのは、仕事で求められているのは「本当(ホンネ)の自分」ではなく、その「企業の社会人」としての言動だからです。仕事をする上でその場の状況に応じて自分自身の言動を切り替えられる「能力」です。これは誰でも自然にやっていることで、大学や企業で振る舞う自分と、家族と過ごす自分は言動が異なるはずです。上述の学生のいう「仮面」は「社交辞令」とか「相手への配慮」と考えたらだいぶ見方も変わると思います。

また「メソッドに囚われすぎ」というのは、学生が就職セミナーで型にはまった自己PRをすることに嫌悪感を抱いているようです。確かに採用担当者にとっても一番辛いのは、同じような自己PRやエピソードを何度も聴かされることです(これは本当に辛いです)。確かにこれだけで終わっては最終的に内定まで至らないでしょうが、それを「基本」の話し方の確認と考えるなら、一つの「能力」として評価できます。「結論を先に話す」という型にはまったメソッドを否定する人は少ないでしょう。

ということで、学生には二項対立の論理だけではなく、どちらも状況に応じて正解になりえるという思考力行動力も身につけて欲しいと思います。そうした能力を身につけることは、学問で言えば文化人類学者の目線を得ることで、感情ではなく理性で言動をコントロールすることです。「私はよく頑張っているなあ」と自分自身を客観的に見る「メタ認知能力」を得ることです。こうした人材なら、ストレスばかりの社会においても鬱にならず、また他者への配慮ができると思います。